
大学受験の真実は想像を超えて
大学受験と聞くと私にとっては、次元の違う話になるわけです。そんなのを乗り越えた人物が一人。今の主人です。どちらかというと私自身が脳内が現実逃避をし続ける類の人間にとって、そんな中を確実に生き抜けた主人の話を聞いたとき凄いなと思ったのでした。厳しいところを回避というか逃げ続けていた自分にとっては、当時の甘さを痛感する話だったのです。しかも、辛いというか耳の痛い話でもあり、興味深い話でもありました。始めから書いてるように、現実逃避を繰り返してきた私にとって、主人の話はもはや「現実の高校生の日常」だったのです。本来の姿、自身が見えていたのに受け入れられず、ふらふらしていた自身を再確認したのでした。ここでは主人の大学受験の話を書きたいと思います。

本来の高校生活の姿がここに
主人の高校は県内でも進学校の一つとして数得られる高校でした。なので、学校生活もそれなりに、厳しい管理下に置かれていたのです。テストは、期末以外にも週ごとにテストがあったほど。聞いて一番なるほどねと思ったのが、漢字のテストです。週に1度行われ、基準を満たさないと漢字1個につき100回書いて提出というもの。要するに受験対策が始まっているのです。手に覚えさせるということです。そうすれば答案用紙を目の前にしても書いていくうちに手が反応し、書けるという確率を高めることが可能だからです。つまり、答案用紙を埋めることで、点数を少しでも上げる。そのたゆまぬ努力こそが結果につながるというわけです。そうなると主人は負けず嫌いと言ってしまえば言葉は優しいですが、本人曰く、ひねくれものだったために先生の言いなりになってたまるか、そんな時間がもったいない。自身の時間を取られてたまるかという具合に自身で必死に覚えていたようです。主人が行っていたのも只々ひたすらノートに書くということのようですが。

覚えたは教えられるということ
主人が受験の時によく行っていた勉強法がタイトルにある「覚えたは教えられるということ」につながります。つまりは、自身が先生となりこの問題について人にいかにわかりやすく説明できるのかということなのです。頭で分かった気になっていないかということです。この年になって思うのは、頭だけで理解していることの多さです。人に教えられるかと言われれば、難しいなと感じたことは皆さんにもあるのではないでしょうか。すみません、話がそれました。主人はこの時すでにそれを勉強の一部として取り入れていたのです。家でテキストないしはノートを見ながら呟きながら勉強していたんだそうです。つまり内容をいかに論理的に説明できるかどうかというのを自身で試していたのです。呟きながら、自身がスムーズに説明できるか、つまる箇所はないのかをチェックしていたのです。自己分析をする、つまりは欠点を明らかにできれば対処はできます。そこをもう一度見直せばいいのですから。

受験の結果を得るためには
地道な努力が結果を生むということはよくあることです。それは結果が出ないこともあるのかもしれませんが。主人は見事に国立の大学に進学を決めています。そのおかげで、今の会社にも入社できています。主人の話を聞いていていつも思うのは、高校時代の苦労が支えているなというのは感じるのです。いま割と仕事の面でもその大学受験で培われた考え方が仕事の面でも生きているように見えます。確かに勉強が何の役に立つのかと問われれば。私は役に立つと答えます。その時に何をしたか、何をしてこれたのかが大きく関わるのではないかと今の私が後悔しているし、そんな主人を羨ましいし、尊敬できるからです。確かにその当時は嫌だし逃げたくなるのはよく理解できるのですが。学生の本分は勉強というのはこの年になってじわじわとのしかかってきます。もちろん元々の頭の良い、悪いはあるかもしれません。でも自分なりにここまで勉強したという思いはその人の糧にも、自信にもつながるのではないかと思うのです。主人を間近で見ているので、私自身はやっぱりやってきたという自負がこの人を支えているんだな。そしてそれが生かされているんだなと感じますか。学生の頃には理解できないのかもしれない。でも意味はあるということを声を大にして言いたいですね。いいです、自分なりにあの時必死に勉強頑張ってたなという。結果がどうであれその行動や思いがその人の支えになると思うからです。
k146著
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