塾を頼る
高校3年生の春。正確に言えば高校3年生になる直前の春。
私は地元の個別指導塾の面談を受けていた。
いよいよ受験生になるので、実績と信頼の受験指導塾を頼りに、あちらこちらと探し回っていたのである。
「夏前までに基礎は全部やっときたいんだけど、けっこう時間が無いです」
面談を担当する塾長が言っていた。そんな風に言われたら焦ってしまうが、実際に時間が無いので焦った方がいいのだろう。
塾長は若い女性だった。それも綺麗な女性だった。いくつかの塾を回っていたが、多くは男性――おじさんばかりだった。
私がそこに入塾を決めたことは、塾長のスタイリッシュが無関係ではあるまい。
断じて決め手ではないが、無関係ではあるまい。
とにかく地獄の受験生暮らしはそのようにして始まったのである。
高校生ラストイヤーの始まる、1週間くらい前のことであった。
古典に関しては0点
私の基礎学力は決して高くなかった。というより低かった。惨憺たるものだった。
高校のレベルは都立中堅くらいだ。目も当てられないほど悪くもないが、威張れるほどよくもない。平均くらいの水準である。
だから私もだいたい平均である、という単純な話ではない。
人は誰しも得意不得意がある。ダイバーシティの時代なので当たり前である。
私の得意科目は現代文で苦手科目は古典だった。
そしてこの差が酷かった。
現代文に関しては満点近いスコアを叩き出せる一方で、古典に関しては0点近いスコアを叩き出せる。
この得手不得手の中間地点を取って、数値で言えばだいたい平均になる……というのが私の学力のことだった。英語と地歴公民が入るので変動はあるにせよ、私の平均を揺るがすほどではない。
つまり得意不得意の差が著しいのだ。
というわけで私がやるべきことは、現代文を大エースにした上で古典を多少はマシにすることだった。
塾では3科目を履修した。現代文と古典と英語である。
それぞれ週に2コマあるので合計6コマ。1コマ80分なので、週に480分(8時間)の授業である。改めて計算すると長い。
とはいえ1週間は24時間×7で168時間。
塾で授業があるのは、その内のたった8時間だ。残りの160時間は、自分でなんとかしなければならない。
学校と睡眠の時間で半分は無くなるとしても、80時間は自力で勉強しなければならないのである。
塾のいいところは、80時間を賢く使える高校生はそもそも塾になんか来ないということを理解していることだ。
そんなわけで宿題が出る。かなり多く出る。計画的にこなさなければならなくなる。
強制力を伴う宿題によって、勉強の習慣が無理矢理身に付く。自室、学校、図書館、カフェ、自習室……様々な勉強スペースを発見した。
宿題の内容は暗記モノと復習が多い。演習は授業でこなして、模範解答でカバーできないことを講師が噛み砕いて伝える。自力の勉強は自力で出来る範疇のことしかしない。
単語学習、文法事項、漢字読み書き。受験期の前半戦は、そんな風にして地味に進んだ。
5月くらいに模試があって、結果が届くのは夏前になる。
もちろん太刀打ちできるわけがなくて、鳴かず飛ばずの結果に打ちひしがれた。
そんな必要などないということは、もっと後になってから気付くのだった。
満点を取る
受験生として入塾してしばらく。
相変わらず古典でできなかった。夏前になっても恐ろしいくらい読めなかった。
日本語で書いてあるはずなのに読めないのである。変な話に思えるが、時代が違うので仕方がない。
夏前までの古典学習は、ひたすら単語学習と文法学習であった。入試本番で出るような問題など解きはしない。助動詞がどうのこうの、文脈判断がどうのこうの、そんなことばかりやっていた。
勉強しながら、私は全く身になっていないことを実感していた。こんな場当たり的な問題ばかり解いていたって、覚えられるはずがないのだ。
そして実際に基礎学習を終えて演習に入ったとき、既習範囲の文法問題は全然解けなかった。どこかで聞いたことある気はするのだが、論理的に解けるほど定着していないのである。
学んだはずのことが活きないストレスを消すみたいに、ルーズリーフの誤答に赤線を上塗りした。そんなことを繰り返していた。
やがて夏休み入ってすぐの頃。
いつものように古典の演習をこなしていると、何だか妙な手応えがあった。文章がやたらとスラスラ読めるのだ。
読めるだけで問題は解けない、なんて現象は大いにある。今回もそれだろうと思っていたが、いざ設問を見ても簡単に思える。戸惑いを覚えるくらい楽々と解ける。
そしてあっさりと満点を取ってしまった。あれだけ唸っていた古典がこうも容易だと、逆に肩透かしを食らってしまう。
奇妙に思いながらも古典学習を続けたが、やはり成績は安定してきた。
ここに来てようやく、地道な基礎学習が実を結んだのである。
文法と単語の学習は即効性があるわけではない。受け身の助動詞「り」を学んだところで、古文にはおびただしい数の「り」が登場するからだ。
だが、そのおびただしい数の「り」を全て学び、おびただしい数の用例に触れたとき。
例えばラ変の「り」や完了存続の「り」まで分かるようになる。当たり前に読める語句が増えている。
そうなったとき古典はありふれた日本語になる。
古典がすっかり得意科目になった私は、夏の記述模試で満点を取った。
ついに国語は私の得意教科となり、それからの模試でも高得点を連発。センター試験でもほぼ満点近いスコアを叩き出せた。
今では文学部生として古典作品の研究に明け暮れている。専攻は現代文学だが。
cjsijievb著
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