専門学校へ進んだ話し

親の病気で叶わなかった大学進学〜恵まれた家に生まれながら・・・〜

母の生い立ち

これは私の母の話だ。

母の実家は、醤油の醸造を生業としている家だった。

家では醤油屋を営みながら、母の父、つまり私の祖父は学校の教師でもあった。

聞いた話によると、祖母は祖父の教え子だったそうだ。

実際私はこの祖父を知らない。

私が生まれた時にはもう亡くなっていた。

祖母はとても優しい人だった。

父方の祖父母も私が生まれる前に亡くなっていたので、母方の祖母が、唯一「おばあちゃん」と呼べる人だった。

母は、この祖父と祖母の3番目の子供として生まれた。

上には兄と姉、下には弟と妹がいる5人兄弟の、まさに真ん中の子供だった。

伯父は祖母とよく似ていて、とても優しい人だった。

自分の子供だけではなく、私たち甥、姪もとても可愛がってくれた。

伯母は、醤油屋の娘であることを買われて、日本酒の蔵元にお嫁に行き、商売をやり繰りしてきたしっかり者で、また手厳しい人だった。

しかし、やはり私たち甥っ子姪っ子には優しい人だった。

私が子供の頃には、嫁ぎ先が忙しくて、あまり会うことがなかったが、大人になってからはとても可愛がってもらった。

母は、この3歳違いの伯母ととても仲が良かった。

母の弟である叔父は、次男ということもあり、家を継ぐ必要がなく、大学卒業後はサラリーマンとして実家を出ていたが、お正月には必ず実家に帰ってきていたので、年に一度は顔を合わせていた。

妹である叔母は、実家の近くに嫁いでいたため、頻繁に会っていた。

このように、祖母を中心に母の兄弟はとても仲が良く、私も小さい頃から大好きな伯叔父、伯叔母だった。

醤油屋という商売をしていたこともあり、母は当時としては比較的裕福な家の子供だったと言っていいだろう。

祖父が教師ということもあり、伯父も伯母も教員の資格を持っていた。

当然母も大学に行っていてもおかしくないのだが、母と下の叔母は大学には行っていない。

恵まれた子供時代

母は昭和12年生まれで、第2次世界大戦を知っている世代だ。

だが、田舎に住んでいたため、空襲に怯えたり、食事に困ることはなかったという。

醤油という日本人には欠かせない調味料を作っていたので、商売はまずまず順調だった。

さらに祖父という人は、とてもハイカラなことが好きだったようで、戦中戦後にあって、母の実家のトイレは水洗トイレだったという。

教師と商売の両方をやっていた祖父は、村長をやったりもしていたのだと母から聞いたことがある。

その頃、農家の子供の中には学校に行かずに家業を手伝い、中学を出ると親の仕事を手伝うために進学を諦める子供もいるような時代だったが、母は何不自由なく高校まで進学した。

田舎で交通の便が悪い地域に住んでいた母の友人の中には、山の中の分校出身という人もいる。

バスを使って本校まで通えていた母は、やはり裕福な方なのだ。

祖父の病気

そんな恵まれた家に生まれ育った母だったが、16歳の時に父親が倒れる。

脳梗塞だった。

幸い命は取り留めたが、このことで、すでに教師として働いていた長男は仕事を辞め、家業を継ぐことになる。

祖母と伯父は、祖父に代わり商売を切り盛りしなければならず、まだ小さかった叔父と叔母は母が面倒見ることが多かったそうだ。

そんな状況でも高校にはしっかりと通っていた。

はっきりと聞いたことはないが、子供の頃に私の勉強を見てくれていた様子から考えると、母の成績は決して悪くはなかっただろうと思う。

性格的にも真面目で優等生であったに違いない。

一時期回復していた祖父の病状は、母が高校3年の頃に再度悪化した。

経済的には決して問題なかったと思うが、母にとっては父親の病状が安定しない中、大学受験の勉強などできたものではなかった。

大学を断念

そんな状態であったこともあり、母は大学には行かない選択をした。

その代わり、高校卒業後は家から通える、洋裁の専門学校に行った。

祖母が和裁をする人だったから、その影響もあったのだろう。

そして母が高校を卒業するとすぐ、祖父が亡くなった。

母は専門学校に通いながら実家の手伝いをしていたそうだ。

そしてそのまま、父と結婚するまで家で祖母を助けていたのだ。

下の叔父、叔母はどうだったかというと、叔父は男ということもあり、祖母は頑張って大学を卒業させている。

叔母は母と同じく、自宅から通える専門学校に行き、その後は家の手伝いをしていた。

こうして母は、専門学校を卒業してから父と結婚するまで、一度も外で働かず、家の手伝いをしていた。

結婚してからも専業主婦だったため、一生他人の下で働くことはなかった。

ただ、高校卒業後に学んだ洋裁が趣味と実益を兼ねた仕事となっていて、知り合いから頼まれた洋裁を家でやっていた。

それが私の知る唯一他人のために働く母の姿だ。

一度も就職というものをしたことのない母だが、なぜか社会的常識はよく理解している人だった。

やはり人を使って商売をしている家に生まれ育ったからだろう。

私も大人になり、働いて収入を得るようになってから思うのは、一度も他人の下で働くことなく、お金にも困ることがなかった母の一生は、なんと恵まれていたのだろうということだ。

hkstydg著

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